空堀の歴史
空堀とは大阪城の三の丸外堀「南惣構堀」でいわゆる水のないから堀である。
堀の中には高さ5m以上の衝立が装備されており、大阪城を守るため北は大川、東は猫間川(JR環状線付近)と西は東横堀川があり、南には空堀が設けられた。
大阪冬の陣(1614年11月)徳川方がこの空堀に設けられた特殊なフェンスのため攻めきれず一度は撤退せざるを得なかった。そして、大阪夏の陣(1615年5月)両者の交渉の末、豊臣方の手でこの堀を埋める事で攻撃しないと和睦したにも関わらず、この堀を現在の高さまで埋めた後、再度攻撃され落城した。

空堀商店街の歴史
大正5年から空堀通りには地元の延命地蔵(現在数十体点在)の縁日に当たる4の日に夜店が出て戦前まで続いた。
大正末には沿道の軒切りで6mに広げられた。戦後は空襲の被害からも逃れ、いち早く立ち直り、昭和20年9月に商店会が結成された。
大阪市内で始めてガラガラ福引き抽選売り出しをし始め、これらが人気を呼び商店会としてより発展し、昭和25年にはアーケードも完成。現在では松屋町筋から上本町筋まで3つの商店会(アーケードの形が違う)で構成され、東西800mに及ぶ大商店街となった。


2階建の布団屋。
大正8年(1919)ころの建築。


昆布屋さんの表構え、昭和13年10月の撮影。


現在の空堀商店街

こんぶの土居店舗

空堀界隈の豆知識
「タニマチ」の語源
昭和30年頃、谷町筋に「ススキ外科病院」があり、近くのお寺で間借りしていた相撲力士のケガを無料で治療していた事から出来た言葉で今で言うサポーターのようなものであった。

落語寄席「澤井亭」
昔、商店街の中央部に落語専門の寄席があり、空堀界隈のエピソードをネタにした「らくだ」や「高津の富くじ」などが創られ演じられた。

上町台地の特徴
上町台地は市内で最も高地にあり、空堀からは東西南北すべて下り道路になっている。因に心斎橋大丸デパートの5階に相当し、水害の心配はない地域である。

町名、道路、地番
町名に「内」の付いた場所は大阪城内を意味する。内久宝寺町、内本町、内安堂寺町、内平野町などがある。又山の手や下町と表現せず町名に上町台地の「上」「下」を意味する町名にした上本町、上町、上汐町、上の宮町、下味原などがある。
大阪では東西道路を○○通り、南北道路を□□筋と名付けられている。そして、大阪城に近い方から番地は若い番号になっている。

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